志大才疎。

文系と理系を行き来した人間の掃溜め

『才能』とは、を日々考える

はじめまして。開設してずいぶん経ってからとなりましたが、初投稿になります。

普段はんぺ助という名前で創作活動などをしています。

ブログ自体が久しぶりですが、ちまちまと書いていこうと思います。

 

 初エントリーとなりますが、この話をするためには自分の経歴と趣味について触れておかなければならないので少し経歴を触れておきます。見る人が見れば分かってしまう程度にはしっかりと長いので、流し見してもらえばいいです。

 

○学歴とか

小中学校:地元の普通の公立校。中学は中三の夏期講習~成績が伸びて、最後の定期テストでギリ学年10位に滑り込んだくらい。といっても石にかじりつく努力をした感じもなく、またそんなに学歴に対してのこだわりもなかったので、親に提示された最低ラインの高校を目指してました。(数学は80~90点ほど取れたので、この時点では理系と文系どちらともない感じでした)

 

高校:上記の最低ラインの高校(偏差値は当時で60いくつとかだった気がする)の中堅・自称進学校に進学。1学期は大体学年の真ん中くらいの順位でしたが、2学期から(本当に理由は謎)徐々に成績が上がり、最終的には(最序盤の記述模試の時を除いて)ほぼ学年2位辺りをキープしていました。(記述模試だけたまたま1位になったけれど本当にたまたま。) この時は某旧帝国大の法学部志望でした。(文系

 この辺りから才能とかを意識していた気がする。先述のように万年2位以下だったわけですが、絶対に勝てない1位の子がいて、かといってその子はガリ勉というわけではなくて、ガチの頭のいいタイプの人でした(府下でトップの高校に行ける学力を持ち合わせていながら、家が近いという理由で同じ高校にいた) 実際、旧帝大に過去問も買わずに合格していきました。 ちなみにその子とは今でもたまに飲みに行くくらい仲はいいです。

 

 まだこの頃は努力だとか才能だとかに腐っていなくて、というか私自身も血のにじむような努力、というようなものをした記憶なく成績が伸びたので(分からないことを放置しなかったことが要因かなとは思っていますが)、あんまりもやもやは無かったと思います。

 

 もう少し高校の話。高2の頃に恋人ができて、その人が結構基礎疾患とかをたくさんもっていたことを知って、何か力になれないかと急に薬学部を目指し始めました。この話をスピーチ大会でテーマにして喋ったら決勝まで行って(クラスが違った)その人の前でもそのスピーチができたのは良い思い出。——というのは余談として。

 家庭の経済的に国公立しか行かせられない(薬学ともなると6年なので)かつ一人暮らしNGということで(この事が私の人生を大きく縛り付けることになります)、付近で探したところ条件に一致したのが大阪大と京都大の2校のみ。この辺りから割と真剣に、特に理数をやり込んだのは覚えています。つまりここで理系志望になります。

 

 高3。思うように成績は伸びず、判定は常にE判定(よくて数点足りないD判定)。私立を視野に入れられない以上、諦めてまだ希望のありそうな理学部にスイッチしました。理系の教科の成績自体は悪くなく(成績表でも全部5段階の5だった)、挫折という程ではないのですが、特にセンター試験との折り合いが全くつかず微妙に成績に伸び悩みました。

 結果的に最後まで粘ったものの、センター当日大コケして第一志望は足切りで終了(先生には志望校を落とすべきだと言われましたが頑なに旧帝大を目指してました)。中期後期も理系学部を狙いましたが、センターでの持ち点が悪く全滅でした。一応私立の滑り止めは受かっていたものの、前述のとおり学費問題があったので結構話し合いをした結果、何とかもう一年だけチャンスを貰えました。ただし条件として、どれだけ志望を下げても国公立に引っかかるということ。ということで浪人生活が始まりました。この辺りから人生の歯車は狂います。

 

浪人時:志望は相変わらず同じところの理学部。最初こそ一応薬学部も模試で書いていましたが夏ごろに無理だと分かりやめました。

 ただ安い予備校に行ってしまって生徒の雰囲気が合わな過ぎて結局半宅浪みたいなことをしていました。この時は流石に人生でもそこそこ勉強した気はします。それでももう少しやっておけばなあと思いました。

 

 結果的には足切りは何とか回避、センターリサーチの結果もB判定だったので、第一志望に出願しました。結果は不合格でした。(後から成績開示しましたが、3人差でした)

 問題は中期。近畿圏の理系の中期は下手すれば第一志望と同じくらいの偏差値になるため、背水の陣の私には危険すぎるので、偏差値を大きく下げて文系の中期日程を狙いました。幸いにもセンター自体は8割くらいあって、現代文が8.5割くらいあったので文系学部の傾斜配点だと割と楽々パスできる形で、結局ここに入学しました。つまりここで文系になります。

 

大学:大学は本当にいい思い出があまりないです。普通に友達もいましたし、普通のキャンパスライフは送っていたものの、小規模な大学だったため華もないしサークルもなあなあな感じで面白くはなかったです。後単純に(これは見下しているわけではないのですが)、会話の水準がややずれていて微妙に言葉を選びながら話していました。

 先に述べたように偏差値を下げている&経済系だったので元理系志望で数学ができるというのが相当強みになって、周りからかなり持ち上げられていたのもやや居心地が悪かったです。元々自己肯定感が低いのと、「すげーな!」と言われるよりは一緒に真剣な話ができる人が欲しかったなあ、というあたりで、4年間は本当に闇でした。その分、ここで同人活動を始めて、これも後々人生に善悪綯い交ぜの結果を及ぼしてきます。

 

 大学のゼミは大学内でも一番数学をゴリゴリやってる先生のゼミに入って、そこで計量経済学というのを知りました。そこから統計学を勉強するようになって、後に繋がります。

 書き忘れていましたが、2年生の夏に理系の学部に3年次編入を試みますが面接で割と笑われまくった(2年では卒業できないよw、等)挙句落ちました。(学科試験は普通に解けた感じがしたので面接のせいな気もしますが真偽は不明)

 

 前述のとおり、文系学部に通う中で学問の面白さに気づけず、学歴コンプというよりは理系コンプのようなものがあってずっと理系に戻る(?)方法を模索していました。その一つが編入だったのですが駄目だったので、最終手段、大学院での理転を狙いました。実はこの頃、ある広告で今在籍している研究室の広告が流れてきて、統計学を使うとのことで。統計学ならワンチャンあるのではないかなということで一から統計を猛勉強して、統計検定2級を取りました。まあ今となってはその知識は本当に微細だったと知るのですが。

 結局は院進に進路を決めて(就活はしましたが)、先生とも相談しながら受験。結果的に何が良かったのやら合格して、晴れて理系になりました。(数理系)

 

大学院:大学院では前述のとおり統計学を専攻しているので数理系をやっていました。ただ、結果的に周りのレベルの高さとか(話の水準は合うので学部より遥かに楽しくはあったのですが)、持ち前の打たれ弱さと修論のプレッシャーで呼吸困難とか涙が急に出てくるとか希死念慮とかいろんなデバフがついて、結構序盤から心療内科に通っていました。最終的に12月頃に爆発して、主治医と相談の結果休学する(正確には今年度の修了を見送る)こととなりまして今に至ります。

 ただ、色々便宜を図っていただいて、来年度から一応同じ分野のある施設で働きながら学位を取らせてもらえることになっていて、一応来年度からは統計家の卵として結果的に昔の目標であった薬学部——の中でも創薬の分野には関われるようになって、少し変化球的ではあるものの夢をかなえました、というのが一連の流れです。

 

 

 長くなったので趣味の話は次回に回すとして、要はここまで語ったことの要点としては、

・文転理転を繰り返している

・いいところまではいけるけど絶対に超えられない人がいた

というのがメインです。

 1つ目に関しては善し悪しはありますが、悪い点を上げれば知識や能力が均一的であまりとびぬけていません。数学に関しては今本当に苦労しています。文系の時期を経ずに、理系をやっていればな……と思うことが多いです。

 2つ目に関しては完全に自分の肯定感にもつながってくるのですが、どうやっても超えられない実力差の人が近くにいることで、「ああ、才能ってこういう事なんだな」と思って打ちひしがれてしまう事がデメリットです。努力していないとはもちろん言わないのですが、圧倒的な実力を前にすると努力だけではない何かを感じてしまわざるを得ないです。努力をできたとして、私にはそのレベルの努力すらも恐らくできないと感じるほどに、そもそものポテンシャルが違う人というのが間違いなくいます。アカデミアにいれば、それは嫌という程感じます。

 

 そんなこんなで、私は自分自身の『才能』についても、『能力』についても、どちらも本当に平平凡凡、中途半端だなと感じています。それゆえ最近は、努力をするという基本的行為すらままならなくなっているのが現状です。ありがたいことに、小学校から大学院の今に至るまで頭の良さということを友人らから評価していただくことも少なくなかったのですが、その彼ら彼女らの方が遥かに出来が良くて、賢く見えるのです。

 才能という言葉は逃げだという人がいます。でも私はそうだとは思いません。才能というのは確かに存在します。ただそれを逃げの文脈で使う人が多いだけです。努力さえすればその溝が埋まるなどというのは、その途方もない努力ができる、そんな『才能』がある一握りの人に対して有効な言葉だと思っています。

 環境や運が助けたこともあって、なんだかんだでそれなりの高校・(大学)・大学院まで進んできた凡人の私だからこそ、上は青天井なんだというその絶望にも似た現実があることを知りました。上の層が薄くなればなるほど、見えたくない現実というのが見えてしまうものなのだと、ぼんやりと思っています。才能というのは、何もしなくて何かをできるという意味ではなく、何かを成し遂げるために必要な材料——それが記憶力や洞察力だったり、はたまた格段の努力をし続ける体力、何かを本気で好きになることなど色々ですが——それを手元に持ち合わせている人の事だと思っています。それは先天的にも、恐らく後天的にも得られると思いますが、そういった文脈で私は『才能』の存在を否定しません。というか、できません。

 

 私はそんな中で、恐らくこれからもその一廉の天才たちとやり合っていかなければならないという事実に日々胃を痛めています。

 

 

 これは学問だけではなく、全く同じことが創作の世界でも言えることだというのも、同じ経験を通じて強く感じました。それについては、気が向いた時にでも次の記事で書きます。

よろしくお願いします。